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現代のレバノン

フランスは、自分たちにとって統治が容易になるという理由から、国内の少数派により多くの力を与えると言う政策を実施した。

これは当時フランスの植民地ではよく行われていたことである。しかし、これが原因で現在まで問題が解決しない国もある。

レバノンも同様で、独立を果たしたものの、フランスに権限を与えられたマロン派キリスト教徒とイスラム教徒の力の不文律が原因となって1975年からの内戦状態へ突入した。


第一次世界大戦終了後、サイクス・ピコ協定により、シリアとレバノンはフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領となっていた。

しかし、第二次大戦中、本国フランスがナチス・ドイツに占領されたこともあり、独立の準備が進んでいたシリアやレバノンは、フランスからの独立を模索することとなる。

ビシャラ・アル・フーリーが中心となり、1943年にフランスからの独立を達成し、自由経済政策を推進したレバノンは経済的な繁栄を誇っていた。

だが、1948年、ユダヤ人により、イスラエルが建国されると同時に勃発した第一次中東戦争により、アラブ側は敗退を余儀なくされ、10万人規模のパレスチナ難民がレバノンに流入した。

その結果、微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生した(レバノン内戦)。

隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。

混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃した。

また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばしはじめたのもこの頃である。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した。
イスラエルはPLO(パレスチナ解放機構)を追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。

この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した。

結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。


1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、レバノンはシリアの実質的支配下に置かれた。
1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、イスラエル軍はこれをヒズボラの犯行とし、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。
この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。

イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。


2005年2月14日にレバノン経済を立て直したラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺され、政情は再び悪化し、政府と国民との軋轢も拡大した。
その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退した。


【シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。
シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。】


2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆、続いて全土に拡大されて国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。
7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。
7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員が死亡、7月30日にカナが空爆された。

イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意したが、その後空爆再開。
8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。


8月13日にイスラエル・レバノン両政府が停戦決議(国連安全保障理事会)受け入れを表明。

8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。


まだまだ火種は残されているが、レバノンに平和が訪れることを祈るしかない。






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