レバノン旅行ベイルート情報
レバノンの首都ベイルート

ベイルートは、かつて地中海交易の旗手だったフェニキア人の土地として知られています。
フェ二キアとは、ギリシャ語で『深紅』を表す言葉で、もともとフェニックス(不死鳥)の鶏冠の色が由来とも言われます。彼らの時代から貿易に長けていたレバノンの商人たちは、地中海に面する地の利を生かし、ヨーロッパとアジア・アフリカの物資を流通させ、各地域の文化を伝える役割を担ってきました。
地中海沿岸特有の穏やかな気候は、近隣の厳しい自然環境を有する地域の羨望の的であり、湾岸諸国からの避暑客を集め繁栄を極めていたのです。
ベイルートは、長年東地中海の交易の中心地であり続けたのですが、中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位を奪われていました。しかし、18世紀になると、ベイルートは、(シリアの首都)ダマスカスの支援を得て、この地域の取引の中心地となったのです。
この結果、ベイルートは非常に国際色豊かな都市になりました
19世紀になると、ベイルートは、レバノン山付近で産出する絹の輸出によって繁栄、交易品の多くはフランスの船によって運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。
また、中東の重要な商業センターであり、情報発信地でもあったため、各国の通信社が軒を連ね『中東のパリ』と呼ばれていたことは有名です。
第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスの委託統治下におかれたが、フランス流統治政策として少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになったのです。
第二次世界大戦後、レバノンは一応独立を認められ、ベイルートはその首都となった。
ベイルートは、アラブ世界の核的存在であり、商業と観光の主要な中心地でもあり続けたけれど、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。
内戦のほとんどの期間、ベイルートはイスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割され、かつて商業や文化活動の軌跡をとどめていた市街地は、無人地帯になり、瓦礫と化していった。
その結果、ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。
1989年に内戦は一応終結、ベイルートは戦後復興と新しい都市づくりにと、再建しつつあり、観光・文化・知的活動も徐々に回復。また、商業やファッション・報道も盛んになりつつあるが、今では観光や大衆文化の中心はカイロやイスタンブールなどの都市、金融・交通の中心はドバイにその地位が移り、町の再建への課題は大きい。
また、2006年のイスラエル軍によるレバノン侵攻により街南部が空爆された。街自体の再建は進んでいるものの観光客の減少が街に影を落としている。